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のうひ葬祭のお葬式

        

のうひ葬祭の式場

美濃加茂市

可児市

八百津町

のうひの根っこ

会社や、人には根っこがあって
『いま』や『これからは』、
その根っこから生えていく

家業から、企業へ。
葬儀屋から、葬儀社へ。
閉じた会社から、開かれた会社へ。
これまでの、のうひ葬祭の根っこ(歩み)
をご紹介します。

1981年〜1986年

大反対の中、嵐の船出

1981 昭和56年 6月1日、鈴木朝典(現会長)、岐阜県加茂郡川辺町にて創業。39歳。それまで10年近くにわたって葬儀関連の問屋で働いていた経験を踏まえての独立開業でした。
しかし、家族をはじめ親戚中からは大反対。「独立して始める仕事がなんで葬儀屋なんだ」結局、妻清子のみ協力することになりました。
四面楚歌の中、唯一の朗報だったのが開店1日前に受けた葬儀依頼。「依頼主のところで膝が笑った」(朝典)という初仕事は、祭壇を含めトータル10万円。
清子は、そんな夫の真剣な姿を見て自分でもできることはないかと考え、夫がやっていた『納棺』をやることを決意。当時女性が納棺を担当することは全国的に見てもとても珍しいことでした。

1988年〜1997年

順風満帆。そのツケ。

1988 昭和63年

美濃加茂市古井町に美濃加茂支店を出店。哲馬入社。哲馬は高校時代からバイクに興味を持ち、卒業後はバイクショップに就職。ロードレースにのめりこんでいました。
この年、バイクショップから転職したもののレースを中心とした生活は変わりませんでした。「給料は一人前にもらいながら、1ヶ月の半分はレースのためにいないという“甘えた”状態が続きました」(哲馬)。

1989 平成元年

次男の大介(現専務)入社。

1992 平成4年

八百津町に八百津支店を出店。
哲馬、結婚。子供の誕生をきっかけに宙ぶらりんを止め、『仕事に打ち込み、家業を企業に発展させること」を決意。
この年、三男の玄二(現常務)も入社し、現在の経営体制が整います。

三兄弟の嫁たち・・・ゆかり(哲馬の嫁/1991年入社)、利恵(大介の嫁/1992年入社)、博美 (玄二の嫁/1993年入社)の3人は結婚し、出産してからも、子供を託児所に預け、朝早くから夜遅くまで納棺の仕事に駆けずり回っていた。
ゆかりは、2人目の子供を出産後、義母の納棺を手伝う事を決心。初めての納棺が、自分の子供と同じ年頃の子供の事故死だった。
躊躇していると義母から、『仕事を選ぶくらいなら、最初からやらない方がいい』と言われ、覚悟を決めた。

1996 平成8年

放漫経営のつけが早くも回ってきます。葬儀が前年度比10%ダウン。480万円の赤字。
「しかし私たちはこの状況に気が付かず、行け行けの舞い上がった気持ちしかありませんでしたね」(哲馬)。

1997 平成9年 12月

競合会社が可茂地区初の斎場を建設。知名度が上がってくるにつれて件数を増やしていきます。のうひ葬祭にはまだ斎場を持つという発想はありませんでしたが、「このままではやられる」と思い、遅まきながら行動を始めました。
勉強会で知り合った人たちに斎場や図面を見せてもらい、建設費を聞き、自分たちにできそうなプランと簡単な収支計画、決算書を持って取引銀行に交渉に出かけました。
支店長を相手に精一杯の思いをぶつけたものの反応は思わしくありません。「意気込みはわかりました。でももう少し頑張ってからでいいんじゃないでしょうか」なぜダメなのか? 哲馬は理由もわからず父親に「銀行を変えた方がいいんじゃないか」と言い出す始末でした。
理由がわかったのは、数字に強くなろうと経営の勉強会に参加し始めたときでした。先輩経営者に決算書を見ていただいたところ「現金商売だから回っているだけ。いつ潰れてもおかしくない会社だな」目の前が真っ暗になるほどショックでした。
「そのときは私も葬儀の現場に行き、幕を張って、祭壇を飾って、司会をしてお客様に喜んでいただきとても大きなやりがいを持っていたときだったから。どんどん仕事を増やせば儲かっていくということを信じていました」(哲馬) お金の管理がまったくできていないいわゆるドンブリ勘定。現場のことも基本は「見て覚えよ」方式。
要するにまだ会社としての体をなしていない状態だったのです。

この年、唯一といってもいい成果はお葬式案内のチラシを始めたこと。葬儀の内容や金額などを紹介したもので、地域初で全国的に見ても早い試みでした。
「斎場ができないことを何とかカバーできないかと始めたことですが、不透明な部分が多かった業界をなんとかしたいという思いもありました。こちらの手の内を隠さずに見ていただいて、誠実さが伝わればいいなと」(哲馬)。

1998年

一人の死。ほんとうの出発。

競合会社が斎場を建ててから1年、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで件数を増やしていました。
「のうひ葬祭にもやはり斎場が必要」と結論したものの先立つものがありません。いまの自分たちでできる方法はないかと模索しているとき、地元の青年会議所で一緒に活動している建築会社の方から電話をいただきました。時々斎場のことで相談相手になっていただいていた方です。
「鈴木さん、うちが斎場を建てるから借りてもらうというのはどう?」まさに夢のような、そして願ってもない話でした。斎場の話で社内が盛り上がっていた頃、清子が体の不調を訴えて名古屋市内の病院で検査を受けることになりました。病名はガン。しかも余命あと半年との宣告でした。創業時からあらゆる面でのうひ葬祭を支えてきた清子を襲ったガンは、家族である経営陣をはじめ社内を大きく揺さぶりました。そして9月3日、懸命の治療の甲斐なく清子は新しい斎場を見ることかなわず53歳の若さで息を引き取りました。「葬儀のプロとして10年近くやっていたにもかかわらず、いざ自分の母親が亡くなるとボーっとしてしまって何をやっていいかわからない。ああ、全然わからん。
情けない状況の中で思ったのは「みんな、こういう状況なんだろうなぁ」ということでした。こんなとき誰かが横にいてくれたら助かるなって感じたとき、これが僕らの仕事なんやなって思いましたね」(玄二)。
「無事通夜・葬儀が終わり、振り返ってみたときあることに気がつきました。それは今まで自分たちが良いと思ってお客様に提供してきたことが、いざ自分たちが提供される側になったときにほとんど心に残らないということです。では何が記憶に残ったかと言うと、社員の態度や気づかいでした」(大介)。
「それまでは葬儀をもっとビジネスチックに考えていましたね。会社としてどうやって売上げを伸ばしていくか。葬儀はそのためのツールだろうという感覚に近かった。でも母親の死を体験して、やっぱりそんなことより大事なものがあるだろうって気付かされましたね」(哲馬)。
葬儀を生業にしているものにとって“こころ”や“気持ち”がいかに大切か、清子は身をもって教えてくれたのかもしれません。清子の死はまた“縁”というものの存在と大切さを教えてくれました。「義母の逝去後、右も左もわからないまま経理の仕事を引継ぎました。そんな時に一緒に考え、支えてくれたのが銀行の担当者です。こういう縁も義母にいただいたのかもしれません」(ゆかり)。
のうひ葬祭はこの後ニュースレターの発行やイベント開催など縁をいかすお手伝いをしていくことになります。

1999年〜2006年

挑戦と自信。地域No.1へ。

5月、初めての斎場グリーンホール前平】(美濃加茂市前平町)を出店。同時に『式場見学会』『お葬式相談会』『人形・ぬいぐるみ供養会』など、住宅販売を参考にのうひ葬祭を一般の方に知ってもらうためのイベントを開始。また生前に会員になっていただき、いざというときにメリットを受けられる『やすら樹倶楽部』も開始。
あなたとの出会いは合縁奇縁ニュースレター・・・のうひ葬祭が、葬儀でお世話をさせていただいた方々、面識のある方々に毎月発行しているニュースレター。合縁奇縁:人と人との出会いは全て不思議な縁による。「当初は『グリーン通信』という名前でした。工夫しようと思い、四字熟語辞典でいい言葉がないか探していると、ア行で一番最初に『合縁奇縁』が載っており、のうひ葬祭に合致しているので、そのまま採用することに」(哲馬)とは、まさに合縁奇縁なエピソード。レターの文章は社長自身が筆を取り、世の中のことや読んだ本、見た映画など本音を交えてざっくばらんに書いています。1999年8月から発行し、現在も続いている。

2000年 平成12年

葬儀業界の次世代を担う若手メンバーが中心となって出資設立した(株)エポック・ジャパンに参加。「葬儀業界をクリーンでオープンなものにしたい」という志を持った全国の仲間たちから刺激はもちろん、マーケティング・営業・人材育成など事業面、経営面で多くを学んでいます。
「僕は言葉は悪いかもしれませんがパクるのが得意なんですよ(笑)。同業の中で伸びてる会社があると尋ねて行って、いただけるものは全部いただいてきちゃうという。それを自分たちに合うようにアレンジしてこれまでやってきたところがありますね。事業戦略をオープンに公開してくれたり、時には決算書まで見せてくれたり、感謝している方はたくさんいます。いまは私も自分が教えることで、他の人が伸びていくのを見ると嬉しいと感じるし、自分の手法が他社でも応用できるかどうかということには関心があるので、自らの経営手法をできるだけ明かすようにしています」(哲馬)。

価格の明朗化について・・・のうひ葬祭では、1999年から葬儀価格をわかりやすくオープンにしています。その参考となったのが宮崎県にある会社の価格戦略でした。
競合会社の低価格戦略で大きくシェアを落としていた同社は、その対応策としてただ金額を下げるのではなく、葬儀のサービス内容を根本から見直し、それに合わせる形で金額設定しようと考えたのです。
過剰なサービスを止め、遺族が求めるだけのサービスに限定して簡潔な安価な葬儀を提供したり、「参列者の数が不明なので、葬儀費用は式後に決定する」という不明確な金額設定をなくすために、あらかじめ参列者数別に金額を設定して明示したり、サービス内容と金額を明確に打ち出す手法を考案。シェアを大きく回復させました。

2000年 平成13年

【各務原市民斎場】(各務原市蘇原)を出店。

2002年 平成14年

【グリーンホール西可児】(可児市土田)を出店。

2003年 平成15年

HP開設。

2004年 平成16年

【グリーンホール八百津】(美濃加茂市八百津町)を出店。
社長と専務が中心となってミッション(使命)とクレド(行動指針)を制定する。

2005年 平成17年

【グリーンホール山手】(美濃加茂市本郷町)を出店。

2006年 平成18年

【グリーンホール今渡】(可児市今渡)を出店。
『グリーンホール山手』『グリーンホール今渡』は同時に着工、オープン。
すでに両市には1つずつ会館を設けており、同じ市内に2つの会館を設けることは常識的には考えられませんでしたが、そこにはマーケティングに基づいた経営的な狙いがありました。「それまでの実績を調べてみると1館では受けきれない葬儀がかなりあり、結果的に他社が引き受けていたからです」実際、1市2館体制になってから葬儀件数は増加し、美濃加茂地区ではシェアNo1を獲得するまでになりました。
「母親の葬儀で思ったことが、それまでは悲しい場面でも至れり尽せりのサービスを提供するのがよいと思っていたのですが、いざ自分たちが体験してみると余計なものだと感じました。それよりも家族で過ごすことの方がずっと大事。そのための場所と時間をご提供するのが私たちの役割ではないかと思うようになりました。それには静かで気を使わずに済む1日1組の葬儀が理想。ホールが増えることでより多くのご要望にお応えできるようになりました」(哲馬)。

のうひグリーンブック
葬儀にあたっての 基本的な知識をまとめた本。資料を請求し てくださった方に何かできないだろうかと考え 作成しました。

2007年〜2013年

開かれた会社への一歩。

2007年 平成19年

初めての新卒採用。きっかけは社長が大阪にある同業者の会社説明会を見学したことでした。「新人社員が学生に対して堂々と自社のことを語っている風景を目のあたりにして衝撃を受けました。それまでは新卒の学生は葬儀会社に応募しないし、仕事ができる経験者を採用するのが当然だと思っていた」ちょうど売上を中心とした成長戦略に行き詰まりを感じ、人材教育に関しても不安を感じていたときでした。
「新しい人材が入らないと、社員たちは今の仕事に縛られ、ずっと現場。仕事を覚えても、下に教える機会がないので、成長が止まってしまう。でも彼らが後輩から聞かれる立場になることで成長する機会が生まれる。受け入れ態勢に不安もありましたがいろんな効果が少しずつ生まれています。小規模の会社が毎年新卒採用を行うのは大変な面もありますが、少数でもいいので続けることが大切だと思っています」8月、養老猛先生を迎えて第1回のうひ葬祭文化講演会開催。

2008年 平成20年

のうひ葬祭人材育成プロジェクトがスタート。
一人ひとりの社員が、のうひ葬祭が理想とする人材一不安を安心に変えることができるような気づきを持てる人材一に成長できるようにプログラムを設計しました。

2010年 平成22年

【グリーンホール東可児】(可児市中恵土)を出店。
こうした新しい斎場の出店にみられる、これまで経営方針として掲げてきた拡大路線。その方針を180度変え、会社が大きく変わる「きっかけ」となった1年でした。
背景には、「量」を追求した拡大路線に危機感を感じていたということがあります。ご遺族が必要としている本当のサービスとは何か?「葬儀の本質」に目を向けて原点に立ち返り、改めて真剣に考え抜きました。まず、自社の立ち位置を明確にするためにキーメッセージを今までの「真心でご奉仕」というアバウトなものから『ご遺族のこころを考えぬく』という分かりやすいものに変更。そして、のうひ葬祭が大切にしていることを知って頂くための折込みチラシを配布し始めると同時に、野立て看板も刷新しました。
これらの取り組みには、自分たちの姿勢を対外的に宣言するとともに、社員の意識も変えていこうという意図が含まれていました。

オフィシャルサイトのリニューアル・・・明朗会計やお手頃価格メインの打ち出しから「葬儀の基礎知識」「参列のマナー」など、いざという時に知らないと困るであろう内容を盛り込むサイトに変更。

2011年 平成23年

地域に根差した葬儀社であることを知って頂くために、折込みチラシの裏面に美濃加茂・可児エリアの観光名所をイラストで掲載しました。三和町、花フェスタ記念公園、八百津祭などのイラストにちなんだ情報を発信し、のうひ葬祭を身近に感じて頂けるようにと考えました。
また、葬儀に関する不安を払しょくしてもらうために『お葬式大学』を開始。これは、社員が講師となり、外部講師も交えながらお葬式の流れや、家族葬のメリットとデメリットをお伝えするというものです。参加された方に、家族や親戚から頼りにされるほどの知識が得られると、とても好評でした。

観光名所をイラストで掲載・・・『ご遺族のこころを考えぬく』という、のうひ葬祭の葬儀観をイラストと共に発信。オフィシャルサイトにも掲載し、予想以上の反響が得られました。

2012年 平成24年

この年、のうひ葬祭は30周年を迎え記念となるイベントを開催。社員はもちろん、取引先を招いてレセプションを行いました。
この時に、自分たちの歩みを振り返る歴史ムービーを作成。また、折り込みチラシの内容を、地元の名産品や文化にエピソードを交えて紹介する内容にしました。
社内結婚が増えてきたのもこの頃。2007年から始めた新卒採用が、2期生、3期生とつながり、結婚にまで至るカップルが誕生するのは、とても嬉しい事でした。

人気企画「写真コンテスト」・・・折り込みチラシで、写真コンテストもスタート。
地域の方との接点を増やすための企画でしたが、コンテストの期間以外にも写真が送られてくるようになりました。

2013年 平成25年

葬儀とは違うところで地域の方との接点を増やすために、まごころ基金をスタート。これは地元で活動しているNPO法人などに補助金を通して支援するという試みです。
わずかばかりの資金不足によって満足した活動が出来ていないNPO法人が多数あるという話を聞いたことがきっかけとなり行われました。
初年度は、八百津町のコミュニティーセンターきらり、若葉台高齢福祉連合会、河合西健寿会に基金を授与しました。

2014年〜2020年

そとからなかへ。芽吹く兆し。

ホスピタリティ研修を開始。以後、社員1人1人がホスピタリティとは何か学び、考えるようになりました。従来のサービスが1対多数の定型化されたものであったのに対し、ホスピタリティのサービスは1対1です。
研修のきっかけとなったのは、社員が活き活きと働いていないと感じたこと。そんな折、社長は『巡るサービス』という本に感銘を受け、実例として紹介されているホテルまで赴き視察。ホスピタリティの専門家から意見を聞くために、のうひ葬祭に招きました。
「その人がね、うちはダブルスタンダードだと言うんですよ。社長の指示と、専務からの指示が違うから社員が迷っている、と。衝撃でしたね。何とかしなければいけないと気がついてはいたけど、なかなか手をつけられていなかったことを見事に指摘されました」(哲馬)。ホスピタリティは社員がバラバラでやっていても上手くはできません。社長は、その指摘を受け、苦楽をともにした専務と常務に会社を一旦離れてもらう決意をします。創業以来の大改革でした。
しかし、二人が現場を離れることによって部長たちに「自分たちでなんとかしなきゃいけない」という雰囲気が生まれました。「この時はまだ、目に見えて何が変わったという手応えはありませんでしたが、社内から不安の声は少なくなってきました」(哲馬)。社員全員がひとつになり自らが進んで働く「芽」が出始めたのです。
またこの年から、大切な人を亡くされたご遺族の心に寄り添う、グリーフサポートに力を入れはじめました。全社員が基礎講座でグリーフの知識やサポートのあり方を学ぶことによって、自分自身や他の社員のグリーフにも気付き、お互いを支え合うことが出来始めました。一部の者は、その上位の講座も受講し、資格を取得しています。

グリーフサポート・・・死別などによって大切な人を失ってしまった時、悲しみ、悲嘆=グリーフ)を自分の中に閉じ込めてしまい、日常生活に様々な影響が出てしまう事があります。
日本人は悲しみを我慢する事を美徳とする民族であり、多くの人がその思いを打ち明ける事が出来ずにいます。そのような深い悲しみに一緒に向き合い、寄り添い続ける事をグリーフサポートと言います。

2015年 平成27年

葬儀社を探すのにもスマートフォンを使うようになってきたので、当社でも遅ればせながらホームページをスマートフォンにも対応できるように変更しました。
また、お客様も大切ですが、そのお客様に接する社員同士の関係性も同じくらい大切だと感じ、関係性を意識し始めた年でもありました。
特に幹部会議の中では「関係性の質」という事について多くの時間を使いました。

2016年 平成28年

1対1のホスピタリティのサービスが社内に浸透していくなか、組織の体制がさらに大きく変化。経営陣が現場を離れ、幹部が中心となり社員達が話し合って会社を動かしていく体制となりました。トップダウンではなくボトムアップへ。自分たちがやりたいことと、お客様が求めていることを合わせていこうという意識が社内で共有され始めました。
その一環で、直接、ご遺族の声を聞く為に、部長達が自ら社員と共に現場に行くようになりました。「現場の様子を社員に聞くと、部長達はご遺族とスグに仲良くなります。と私に教えてくれました。それは、のうひ葬祭が元々持っていた『のうひイズム』です。自宅葬が中心だった頃は、ご遺族の方たちと一緒になって葬儀を行っていたので、スグに仲良くならなければ良い葬儀ができなかった。しかし、駐車場の確保、葬儀の準備や後片付けが大変などの理由から、葬儀場で行う事が中心になっていったんです」(哲馬)。
自分たちの原点に帰ることこそ、これからの時代に求められること。こうして、現場ではご遺族の気持ちをヒアリングすることに時間をかけるようになりました。ヒアリングした情報は商品にも影響を与え、幅広く用意された同じ価格帯の物からご遺族が自分達の葬儀にふさわしいものを1つ選べるような商品が企画されました。加えて、社内の意識を共有する為にこの年のメインプロジェクト活動として、全社員が集まって話す「全員ミーティング」を行いました。

瓦版チラシ・・・地域の方との新しい接点としてスタート。これは、新卒入社の社員が責任者として運営しているインターン制度に参加した学生の活動がきっかけとなり始まりました。地元のNPO団体がイベントに来てくれる人を集める際に、自社チラシの誌面を告知スペースとして無料提供するというものです。地元のNPO団体を回った学生の発言が、会社を動かし社会へと影響を与えたのです。
これは、NPO団体がイベントを開催する際に空いている葬儀場を利用して貰おうという企画へとつながっていきます。

2017年 平成29年

産休から復帰した社員の希望で、20年ほど外注していた納棺を再び自社で執り行うことになりました。「社員がやりたいことをやれる会社でないと。昔のように自社で納棺はしないのか晩年の会長にとっても気がかりだったようで、ちょうどいいタイミングでした」(哲馬)。外注をお願いしていた会社に教育を依頼し、2人3人と納棺師が増えてきました。
また、グループ企業の有限会社百祥が設立。グリーフサポートなど葬儀社として学ぶべきメンタル関連の知識を社長の妻ゆかりが学び、それをさらにのうひ葬祭の社員に教える、社内大学の役割を担っています。社長面談が始まったのもこの年です。
90人近くの社員ひとりずっと社長が、それぞれ1時間ほど語り合いました。目的は、お互いのことを知り、関係性の質を上げるため。「面談前は、恥ずかしながら社員の名前と顔が一致しない状態でした。以前は、会社は仕組みで回すものだと考えていたけど、人間だからそれだけじゃダメ。よく知らない相手の話は聞いてくれない。小さい時の夢など、パーソナルなことをシートに書いて見せ、質問し合ったことで、前よりもお互いのことがわかるようになりました。
2015年以降に幹部会議で話題に挙がっていた『関係性の質』の重要性に改めて気がつきました」(哲馬)。会社が拡大するなか、社長と全社員との距離感を保つ大切な時間として今も続いています。

2018年 平成30年

お世話になっている地域との接点を増やすため、多目的ホール『竜胆庵』が開店。普段は法要会場や社内ミーティングの会議室として使いながら、フラワーリース体験会などの地域交流イベントや、学生インターンの発表の場としても使っています。

2019年 令和元年

創業者にして会長だった朝典が、ゴールデンウィークを前に逝去。葬儀屋らしい葬儀をしてくれという会長の遺言どおり、盛大に葬儀が行われました。
「今回葬儀までに約1週間の余裕があったからこそ、通夜前日に親族だけで鈴木家思い出の食事メニューで食事をしたり、通夜の後には会長の棺を囲んで、偲ぶ人達と食事をしながら思い出話に花を咲かせたりできました。やっぱり時間は重要。ご遺族の方々にも、慌てず余裕を持つことを勧める意識が生まれました」(哲馬)。入社1ヶ月の新入社員にとっては、初めての葬儀となりました。
そして同時に、令和最初の葬儀でもありました。悲しみとともに、会社が新しい時代を迎える希望を感じさせる出来事でした。11月25日、高まる家族葬への需要を受けて、『よりそいの家族空間 Familia』がオープン。まるで自宅のような居心地の良さをめざして企画・設計された新ホールです。

2020年 令和2年

愛犬家のメンバーを中心に、ペット葬サービスを開発。
おしりには犬の気分があらわれることと、最期という意味を掛けて、サービス名は『いぬのおしり』に決まりました。「猫のための葬儀なら『ねこのしっぽ』にしようかな」(井上部長)。
4月、新型コロナウイルスの感染が広がるなか、緊急事態宣言を受けて、交代出勤が導入されました。ご葬儀も、小規模の完全家族葬にせざるを得ませんでした。宣言が解除されて以降は、開式時間を決めずに自由な時間に参列出来る新しい形の葬儀が生まれました。
「お別れはしたいけど開式に時間が合わない人も参列できるようになりました。これからの主流になると思います」(哲馬)。

coming soon…